腕が痛い。 
お尻が痛い。 
あと膝が痛い。 
そして何も見えない。 
――椅子に縛りつけられて長い時間放置されているから。 
辛いのだが、もがいたところでロープはほどけそうもない。 
「ご飯だよー」 
声がする。僕をこんな風に拘束した女の子。 
椅子に縛られ、タオルを巻かれて目も塞がれたけれども、耳栓はされていない。 
いつもの時間、ご飯の時間。毎日三回。 
いつものように、目隠しをほどいてくれと催促する。そうしないと、せっかく彼女が食べさせてくれるご飯をこぼしてしまうからだ。 
すぐに視界が開けて、彼女の顔が見える。何のへんてつもなさそうな、きれいな笑顔。 
彼女とは同じ高校で、一年目にちょっとしたきっかけで仲良くなり、三年連続でクラスメイトになった。 
付き合っている限りでは、ごく普通の――ちょっと流行に詳しくて、他人の恋愛話にはしゃいだりするような――どこにでもいるような女子高生だった。 
とても、こんな風に誰かを監禁するようには見えないくらいの。 
そういえばクラスメイトだと言ったが、今はどうだろうか。学校には随分行っていないから、もしかしたら僕は居なかったことになっているのかもしれない。 
「痛い。節々全部痛い」 
文句を言う僕の口調。最初はもちろんものすごく切羽詰まっていたけれど、いつからか面倒くさくなった。そして彼女は苦笑しながら小さく、 
「ごめんね」 
と言った。最初の時も今も全く変わらずに。 
彼女の手から差し出される焼きそばパン。首を伸ばしてそれにかぶりつく。 
柔らかいパンと焼きそばのソース味をゆっくり味わって少しずつ飲み込んでいく。今となっては数少ない僕の生きてる実感のうちのひとつ、そして一番のもの。 
彼女がくれるご飯はパンばかり。僕に食べさせやすくてそれなりにお腹が膨れて、ということらしいが、どう考えても栄養が偏る、困る。これも言ったけど、やっぱり彼女は困った顔をしただけだった。 
食べ終わった後、彼女は僕の拘束を一部だけほどく。 
まず片方の足首が自由になったので、膝や足首の間接をほぐすように動かす。しばらくしてから縛り直されて、続いてもう片方、といった具合に順序立てて。 
――実はこういう隙を突いて、たぶん逃げようと思えばいつでも逃げられるだろうと思う。 
でも最初の頃は自分をこういう風にした彼女が怖くてたまらず、思い付きもしないほど心も体も萎縮していて。 
ところがそういうのが落ち着いた頃には、逃げようという気概までもがなぜか失われていた。
視界が開けているうちに、彼女の表情を観察する。目がいってるとか変な風に笑いだすとかそんなことはなく、見た目は平静そのものだった。やっぱり人を監禁したがる性癖や実行に移す行動力があるようには見えなかった。 
訊ねたことはあったけれど、彼女はいともあっさりと、 
「気分の問題」 
と答えた。当然納得なんてできなかったけれど、彼女はそれ以外の理由を答えることはなく、やっぱり困ったように笑うのだった。 
逆に、逃げようと思わないの、と訊かれたことがある。彼女も自分が作る隙には気づいているようだったが、生憎とその気が萎えて随分経った頃だった。 
「別に……」 
と、無気力に返事した。 
というか、時間が経ちすぎたせいか、どうやら僕もおかしくなってしまったらしい。そのおかしさをちっとも修正しようと思わない点を含めて。 
――、彼女は気分の問題だと言った。口で理由を訊いても彼女はこうとしか答えない。 
『それって、どんな気分? どういう気分?』 
訊き方を変えてみても、 
『こういうことをしたくなる気分』 
と。結局、言葉で訊くのは意味がないらしい。 
ならば、実際に彼女の行動に付き合ってみるしかない気がする。それでしか確かめられないかもしれない。それでも結局は無理なのかもしれない。 
あるいは彼女の気が変わって、ご飯をもらえなくなって僕は飢えて死ぬかもしれない。またはある日突然刺されて死ぬかもしれない。そのとき僕は逃げようとするだろうか、もしかしたらその時初めて彼女の気持ちを理解した気になって浮かれたりするのかもしれない。 
「じゃあ、また次のご飯の時間にね」 
彼女の言葉。ドアの閉まる音。 
僕はまたすべてを塞がれて取り残された。
******
「死にたい、って思う?」 
いつもどおり椅子に縛られ目隠しをされている。そんな僕に向かって彼女はそんな質問をしてきた。その後に、死にたいなら殺してあげるとかそういうことじゃないからねと付け足された。 
「思わない。怖いし」 
目隠しされた顔を彼女の声が聞こえる方向に向けて、そう答える。 
「怖いの?」 
「うん。普通はこんなことになってたら、ちょっとくらい思うかもしれないけど」 
裏腹なことを言う。本当は死にたいなんてちっとも思わない。生きたいのかって言われるとそれも胸を張っては言えないけれど。 
「どうして怖いの?」 
「人が死ぬのって病気か怪我だろ、基本的に。死ぬほど痛いとか苦しいとか言うじゃん。実際に死んじゃうくらいなら痛みやら苦しみやらってきっとものすごいことになってるに違いないよ」 
誰だってそれくらいの想像はするはずだ。早い話、僕はこの状況よりも死ぬ際に訪れるであろう痛み苦しみのほうが何倍も、いや何十倍も、もしかしたら何百倍ぐらい怖いのだ。 
「苦しまないように一瞬で、ってやり方もよく言うよね」 
「たぶんそれもダメだよ。時間こそ一瞬かもしれないけど、その一瞬の間にやっぱり想像しちゃうんだよ、ものすごい痛みってやつを」 
だからこの状況でさえ、死というものが迫り来ることに比べればマシな気がしている。僕は多分どんなにつらい目に遭っても、自殺する根性なんて一生持てずにずるずる生きていくタイプだと思う。 
――この状況は、生きてるっていうよりも生かされているっていうほうが正しいけども。 
「じゃあ、逆に訊いていいかな」 
「なに?」 
「今の僕を、殺したいって思ったこと、ある?」 
返事はすぐにはもらえなかった。多分考えているんだろうと思うけど、表情が見えないからわからない。まあどっちにしろ自分から動けないから、待つしかないけれども。 
「とりあえず、ない」 
「とりあえず、なんだ。どうして?」 
「やっちゃったら、もう後戻りできない気がするから」 
「んー、わからなくもないけど。でも監禁の時点でさ、ばれたら前科者だよ?」 
「――くん的には、あたしはもう一線越えてるってこと?」 
「うん」 
「でも、死んだ人は生き返らないし、結局、殺しちゃうのまでは怖いかなあ。ごめんね、うまく説明できない」 
理屈じゃなくて感覚的に怖いのか。それもわかる気がする。少なくとも彼女にとっては、殺すという行為は重いものなんだろう。 
監禁は違うのかと言いたくもなるけれど、彼女はご飯はちゃんとくれるし、それ以外の世話もそれなりにしてくれる。社会的信用って意味では僕も彼女もきっとぼろぼろだけど、その気になればふたりとも何ごともなかったように元の生活に戻れる――戻れない一線はまだ越えていない、と彼女は考えているのだろう。 
彼女から逃げて僕だけ元の生活に戻るってこともできなくはない。というか本来ならそれが一番真っ当な道なのだろうけれど――今の僕はそれを「彼女を置いてけぼりにする」ことになると捉えているし、自分自身の意思はとっくに投げ捨ててしまった。 
一緒に戻るのか、一緒に堕ちるのか。それは結局のところ、彼女の気分次第。 
僕は意思決定を待つだけの、椅子に縛られたぼろ人形に過ぎないのだ。 
「ところで、今日はどんなパンなの?」 
「あ、ごめんね。まだ買ってきてないの」 
――自分のことぼろ人形って今言ったのに、食べることに関してだけは図々しい僕なのだった。